作詞 野口雨情 作曲 中山晋平
己おれは河原の 枯れ芒すすき
同じお前も かれ芒
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒
死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに 何変ろ
己もお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ
枯れた真菰に 照らしてる
潮来出島の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ
なぜに冷たい 吹く風が
枯れた芒の 二人ゆえ
熱い涙の 出た時は
汲んでお呉れよ お月さん
れは 河原の 枯れすすき 이 몸은 냇가의 마른 참억새
おなじお 前も 枯れすすき 같은 그대도 마른 참억새
どうせ 二人はこの 世では 어차피 우리 둘은 이 세상에선
花のさかない 枯れすすき 꽃도 피지 않는 마른 참억새
死ぬも 生きるもねえお 前 죽는 것 사는 것도 이봐 그대여
水の 流れに 何變わろ 냇물 흐름에 뭐가 다르리
おれもお 前も 利根川の 이 몸이나 그대나 도네강의
船の 船頭で 暮らそうよ 배의 사공으로 살아가세
なぜに 冷たい 吹く 風が 왜 이다지 차가울까 부는 바람이
枯れたすすきの 二人ゆえ 마른 참억새의 둘이므로
熱い 淚の 出たときは 뜨거운 눈물이 흐를 적에는
汲んでおくれよお 月さん 헤아려주세요 달님아
枯れた眞菰に照らしてる 마른 줄풀에 비추고 있는
潮來出島のお月さん 이따꼬 데지마의 달님아
わたしゃこれから利根川の 나는 이제부터 도네강의
船の船頭で暮らすのよ 뱃사공으로 살아가는 거야
一番 おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花のかない 枯れすすき
二番 死ぬも生きるも ねえおまえ 水の流れに 何 わろ おれもお前も 利根川の 船の船頭で 暮らそうよ
三番 なぜに冷たい 吹く風が 枯れたすすきの 二人ゆえ 熱いの 出た時は 汲んでおくれよ お月さん
おれは河原の枯れすすき
おなじお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では
花のかない枯れすすき
死ぬも生きるもねえお前
水の流れに何 わろ
おれもお前も利根川の
船の船頭で暮らそうよ
枯れた 菰に照らしてる
潮e出島のお月さま
わたしゃこれから利根川の
船の船頭で暮らすのよ
なぜに冷たい吹く風が
枯れたすすきの二人ゆえ
熱いの出たときは
汲んでおくれよお月さん
どうせ二人はこの世では
花のかない枯れすすき
水を枕に利根川の
船の船頭で暮らそうよ
大正10年(1921年)
原歌 森繁久彌 모리시게히사야
나는 강가의 마른 억새
똑같은 처지의 당신도 마른 억새
어차피 두 사람은 이 세상에서는
꽃을 피울 수 없는 마른 억새
죽는 것도 사는 것도 여보
물의 흐름에 무어가 변할까
나도 당신도 도네강의
뱃사공으로 살아가요
왜 싸늘하게 부는 바람이
마른 억새 같은 두 사람 탓
뜨거운 눈물이 흐를 때는
닦아주시구려 달님이여
마른 줄풀을 비추는
이타코 데지마의 달님이여
난 이제부터 도네강의
뱃사공으로 살아가겠어요
民!「枯れすすき」としてz表され、その後、中山晋平がメロディをつけて「船頭小唄」となった。「カチュシャの唄」(同じ晋平の作曲)などと&ぶ、日本大衆音}史における;期となる作品である。「船頭小唄」の前提となるのは、日本の在野の知識人が「子ども」なるものと向き合った童!運動であり、同じく日本の「風土」「民衆」と向き合うことでつむぎ出された民!(の作り え)である。これらの作家活動の中からは、北原白秋や野口雨情ほかp多くの才人たちが、たくさんの名曲をし、官主導の唱歌と共に日本人の音}的な感性を大きく えることになった。この流れから生まれ、のちの(昭和時代以降の)演歌などがかもし出すメランコリズムの基本を提示したのが「船頭小唄」だった。z表ののち、歌はまたたくまに全へがったが、Xに人 に愛唱されただけでなく、せまりeる&の季節を暗示していたとも言われ、また東大震災(大正12年)を予言した歌だとも言われたほどに大きな得力を持っていた。雨情の詞は、多賀郡磯原村(現北茨城市)に生まれた彼にとっても馴染みのある利根川を舞台にしている。その枯れはてた情景は、不遇の時代をL した雨情の心の反映である、とも言われているが、それだけではない。ちなみに歌の後半に織りまれている「 潮e出島 ( いたこでじま )」とは、潮eの町の南にがるデルタ地/のことで、この地域ならではの水(水路)とあやめの花と、船頭という風物詩は、江8時代から長唄の「藤娘」や端唄などでよく使われていた。つまり「潮e出島」(潮e節)という、江8の花町で洗練された色Kの歌がそれだが、このイメジを雨情は「船頭小唄」でまっこうからU拭しようとしているのである。こんなところにも、作家としての彼の姿勢が見えるようである。なお歌詞に出てくる「 眞菰 ( まこも )」とは、地/に生えるイネの仲間で、しめ やむしろなどを編むのにも用いられる多年草である。
★中山晋平(なかやましんぺい) 明治20年(1887年)3月22日生。昭和27年(1952年)12月30日。 長野 下高井郡日野村新野(現中野市新野)生まれ。日本の大衆歌!に大きな足跡をした作曲家。長野 に生まれる。島村抱月の家で書生生活を送りながら東京音}f校を卒業、幸田延やユンケルらにも師事した。大正2年、抱月が松井須磨子と芸術座を旗揚げした時に、中山も同行し、劇中歌として「カチュシャの唄」「ゴンドラの唄」をz表する。「カチュシャの唄」は、須磨子人 と共に全的に浸透し大正期を象する1曲となった。抱月の死による芸術座の解散にともない、彼は童!へも進出、ここでも「てるてる坊主」ほかの作品で異能ぶりをz揮した。野口雨情たちとともに日本民!の調査も始め、雨情との共同作業の中では「船頭小唄」という、その後の歌!曲の進む道を決定づけたとも言える;期的な作品を生みだした。このほか「波浮の港」「出船の港」「東京行進曲」など多くのヒット曲を持つ。
作品 -
「シャボン玉」野口雨情/中山晋平 「あの町この町」野口雨情/中山晋平 「雨ふり」北原白秋/中山晋平 「雨降りお月さん」野口雨情/中山晋平 「兎のダンス」野口雨情/中山晋平 「里ごころ」北原白秋/中山晋平 「<城寺の狸子」野口雨情/中山晋平 「砂山」北原白秋/中山晋平 「背くらべ」海野厚/中山晋平 「船頭小唄」野口雨情/中山晋平 「てるてる坊主」E原鏡村/中山晋平 「山の唄」北原白秋/中山晋平
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